貿易銀が新たに発行せられたのは、量目を多くしてこれを中国をはじめ遠くインドあるいは海峡植民地にまで広く流通せしめようとしたためです。
これが物流センターのはじまりです。
日本経済の現実はまだ中国の一部と取引し始めたばかり、香港はおろか、まして遠くインド、海峡植民地では日本は殆ど知られていなかった状況のなかで、日本の貿易銀を広くアジア、インドで流通せしめんとするのは夢のような構想でした。
そうした雄大な方針を打ち出したのは実は大蔵卿・大隈重信であったといっていいでしょう。
彼は台湾出兵当時、蕃地事務局長官を兼ねていました。
そして明治7年6月、蕃地事務局から十数か条から成る「安藤(香港)副領事への仰含候廉書」を送っています。
そのなかに、
「1.貿易1円銀の流通を広むる事」
・・・という1か条があって、香港領事館においても、これが流通に助力すべき旨の方針が了解されていました。
こうして明治8年、新たに鋳造された貿易銀が、翌明治9年頃から中国の開港場で流通しはじめることになります。
しかし、政府の方針にもかかわらず一時にぱっと流通が拡がったわけではありません。
明治9年の香港には貿易銀がときどき顔をみせる程度にすぎなかったのです。
ところが明治10年になると、大蔵卿・大隈の態度はにわかに積極的になりました。
といって、政府自ら表面に立って流通にのり出すわけにはいかないので、民間の手を借りることにしました。
その方法というのは、第一銀行と共同経営の下に三井物産会社支店を香港に設け、三井物産支店で流通のことを一手に引き受け、党換事務をも行なうというものでした。
たしかにアイディアとしてはいうことはありませんが、香港には当時日本商人としては唯一軒、駿浦号という小商店があるばかりで、それも倒産寸前という有様・・・。
また日本の商船も定期航路を開設していない情況のなかで、いきなり三井物産が支店を出して果たしてうまくゆくのかどうか・・・。
それどころか香港政庁がそんな日本の野望をおいそれと認め、貿易銀流通の許可を出すかどうか。
日本政府に成算があったのかといわれると、正直なところなかったといった方がよかったのではないでしょうか。